そんなの、みんな好きだわ

こんばんは!
脳科学者まりかです!
「接客で、ニコッとされたら、好きになってしまうし、勘違いしてしまう。
叶わない相手、愛してくれそうにない相手ばかりを好きになってしまう。
愛されたいのに、愛してくれる相手からは、逃げてしまう。
かといって愛してくれないと、怒りがわいてくる。
夜の仕事の女ばかり好きになる」
みたいな感じの、とても興味深い話を見つけました。
このテーマ!
いつか私の言葉で、
説明したい、
書いてみたいと思っていました。
自分より不幸そうな人、
もしくは、
自分と同じくらい(もしも同じではなかったとしても、自分から見て、同じだと思っている)のレベルの人、
この程度なら、こんな自分のことでも、愛してくれるかもしれないって、
見下しとか劣等感もあるのかもしれないし、
たとえ、
見下しではなかったとしても、
自分のことを理解してくれそう、
受け入れてくれそうと思う人に恋をすること、
愛を求めてしまうことは、
どんな人間でも、
自然なことだと思っています。
だって、
そりゃあ、
拒絶されたくないですよね。
拒絶されたとしても、
やんわり断ってくれそう、とか、
その程度の計算は、
どんな人間でも、
無意識にしている計算だと思うし、
どんな人間でも、
もっている感情だと、
私は決めつけています。
しかも、
それが無邪気で、
何も知らない子供ではなくて、
ある程度、
経験がある大人なら、なおさら、です。
たとえば、
こんなケース。
片思いはするけど、進展しない。
自分からはいけない。
好みの人には愛されない。
相手の好意がハッキリとわかるまでは、絶対に自分も好意を見せない。
自分は、ひとつも、あげたくない。
こんな思考の人は決して珍しくなく、
奇人でもなく変人でもなく、
正常な防衛本能が働いています。
ある程度、
失敗を経験していれば、
異性とまともに向き合えない、近付けない、近づいても、おかしな近づき方とか、中途半端なことをしてしまう、自分でもなにがしたいのかわからない、
幻滅することも怖いし、
幻滅されることも怖い、
相手のいい部分だけを受け取りたい、
相手のわるい部分は見たくない、
だけど自分のわるいところは受け入れてほしい
そんなコンプレックスが大きくなるのは、仕方のないことです。
前向きに関わりたい気持ちは、
ちゃんと、あるんだけど、
傷を恐れる気持ちから小さなアプローチ、
もしくは結果を急ぐような距離なしのグイグイした極端なアプローチ、
受け入れてもらえないと、
相手を傷つけたくなる、
もしくは傷つけるまでいかなくても、
完全に相手を遮断したり、
ブロックしたくなる、
視界から消したくなる、
そういう極端なことしかできない、
どっちかしかできない。
愛されたいのに、
求められたいのに、
近付かれたら、
あらさがしをしてしまい、
嫌いになってしまい、
逃げてしまう
そういう矛盾を抱えている人間は、
多いと思うし、
私にも理解できる感情です。
失敗したくない。
惨めな思いをしたくない。
わかりやすい見返りがなければ、
絶対に動きたくない。
きっと、
そんな感情だと思います。
恥をかくのを恐れるし、
それ以上に、
「拒絶される自分」
を、避けたくなるし、
見たくないんですよね。
誰だって、そうなんです。
失敗したことない人、
恥かいたことない人って、
絶対に存在しないんです。
そして、
誰もが、
そんな傷を抱えながら、
どうするのかって、
そこで自分が抱える愛情とか欲望に従って、
相手のことを求めて、
相手に合わせるのか、
もしくは、
相手が完全に自分に合わせてくれて、
自分を求めてくれるのをまつのか、
つまり、
あきらめて、ひとりを選ぶのか、
あきらめずに、ひとりじゃないことを選ぶのか、
二種類の人間に分かれるんだと思います。
それで、
最初に書いたように、
毎回、
夜の仕事の女に恋してしまう男性というのも、
そうなれる可能性のある女(現実は違ったとしても、その男性が、そう思ってしまうってことです)、
自分の劣等感を刺激したりしない、
表面だけはニコニコしてくれる人を好きになるってのは、
ちっとも、おかしなことではありません。
サービス業や接客のように、
ある程度は「自分のことを相手にしてくれるのが当たり前、ハッキリと見返りがわかる相手、いい関係になれることを期待させてくれる相手」を好きになるのは、
自然なことだと思います。
愛されたい、求められたい気持ちが、
自分の劣等感を刺激しない人を求めてしまうんだろうね。
わかります。
優しい人、
ニコニコしている人のこと、
勘違いするまではいかなくても、
やっぱり私も大好きだもん(笑)
そんな人のことは、誰だって、大好きです!
好意をもってもらえていると期待してしまう、勘違いしてしまう、
好きになってしまうのは対等な関係を育めない人、
愛してくれそうにない人に、
自分の闇を投影してしまって、
自分だけは愛してもらえるかもしれない、
自分だけは特別扱いしてもらえると錯覚してしまう、
自分の思い通りに出来そうだと錯覚してしまう、
愛してくれない人に執着してしまう、
そんな人とか、
そんな思考は、
決して、おかしくありません。
その感情そのものは、決して、病気ではありません。
夢を見ることも、
悪いことではありません。
相手が向けてくれる好意(だと感じるもの)に、
全力で、すがっちゃうよね。
相手の少しのふるまい、
相手の少しの表情の変化、
それらに全神経を集中させ、
「愛されている証」
を、
探してしまうし、
どこまでも、
底なしの欲望を剥き出しにして、
愛されている証、嫌われていない証を、求めてしまうんですよね。
一方で、
やんわりと牽制されても、
そういう「サイン」がわからない、
直感では、
拒絶されているのだとか、
愛してくれないと感じていても、
自己肯定感が低いのに、
プライドの高いという矛盾をもっていると、
それを否定して、
好かれていると信じたくなる。
嫌われることを、
受け入れることが出来ない。
嫌われるまえに、
嫌いたい。
傷つけられるまえに、
傷つけたい。
あげるまえに、
もらいたい。
もしくは、
ひとつもあげたくないけど、
ぜんぶ、
もらいたい。
ひとつあげたら、
百倍返しで、愛情を返してほしい。
そんな気持ちが、
私には、痛いほど、理解できます。
「利害関係を超えて自分を受け入れてくれている」
と、どうしても思いたい。
その気持ちは痛いほどわかる。
だって、
人を好きになるって、
そういうことだ。
劣等感の強い人は、
「異性に拒絶される自分」を猛烈に避ける一方で、「異性に関心を持たれる自分」を肚の底から渇望する。
「愛されたい」
「好かれる自分を見たい」
「異性と居心地のいい関係を持ちたい」
誰もが普通に抱えるこの欲望。
理解していても、
それは、
自分の心を突き刺すような痛みで、
見たくない、表現したくない、認めたくないんですよね。
だから選ぶのは、
サービス業のような「誰にでも笑顔を向ける女性」「楽しく会話してくれる女性」になる。
愛されたいなら、
そんなの絶対に、
一般人を好きになるほうがいい。
それでも、知り合うのがそういう「対等になれない女性」ばかりになれば、好きになるのも仕方ないのかもなあ、と。
恋心は理屈じゃないからね。
「愛してくれそうにない人」ばかり選ぶのは、抱えるコンプレックスが現実を見せないから。
対等な目線で話せる異性というのが自分にとってどれほど遠い存在か、身をもって知っているから、無意識に利害や上下のある関係のなかで人を好きになる。
親しくなりかけている相手には、
いきなり攻撃的になるような不安定さが目立つかもしれない。
一般人のほうが、
むしろ交際のハードルは低いはずなのに、
そういったサービス業の女性と向き合うときより、
ずっと関係を維持するのが難しいんですよね。
常に「好かれている」「関心を持たれている」と示してもらわないとダメなんだよね。
「愛情以外で自分を気にかけてもらう理由がない」状態が不安の源になる。
夜の女性なら、自分に関わる理由が明確にある。
そこに安堵を見出し、「相手からは切れないつながり」に期待して、欲望を持ち込む。
サービス業の女性を好きになっているときは、
その人と衝突や対立する場面は、
滅多に起こらず、
滅多に喧嘩もなく、
常に心理的な距離のある状態で関係を続けられるもんね。
尊重される自分を見せてくれるのが当たり前になれば、そこに甘んじちゃうよね。
難しい恋愛ばかりを選んでしまうのは仕方ない。
それなら、
「その関係のなかでどうすれば相手と居心地のいい状態になれるか」
を考え抜く胆力が必須になる。
私が伝えたいことは、
そういう相手を好きになってしまうなら、
恋の成就とか、
自分の得を考えるよりも、
一緒にいれることを楽しんでほしいなんですよね。
人を好きになるのは幸せなこと。
だって、
誰かを受け入れるエネルギーがある人は、
他人とポジティブな関係を必ず築けるはずだもん。
相手と対等な立場でなくても、気にかけてもらえるのは自分には「人としていい部分」があるということだしさ。
相手にとって価値があるということですからね。
そこだけは、どんなつながりであっても関係を続けるために不可欠な要素のはず。
それなら、お互いのいい部分を認めあって楽しい感情のやり取りをするのが、心の距離を近づける最善の道になる。
好きな人と対話すること、笑いあうこと。
思いを共有すること。
そういう瞬間の連続で愛情は育つ。
「されたこと」に愛情の証を探すのではなく、まずは自分自身が「その人を好きな自分」を受け入れて慈しむことが、成就には欠かせないと私は思う。
失敗は恥じゃないし、何度でもやり直せるもん。
そのエネルギーを持つために、
何よりも、
「今の弱い自分を知ること、醜い心をもつ自分を知って、それでも、そんな自分のことを愛する」
ことが欠かせない。
相手を愛すると同時に、どうかそんな自分も大切にしてほしいな、と。
劣等感は消えない。乗り越えるのも時間がかかる。
人に愛されたければ、まずは自分を愛さなければならない。
それが劣等感の深い人には最大の課題であって、少しずつでいいから、いろんな感情のやり取りを楽しめる自分を愛してほしいと思う。
共依存のように「好かれている証明」を押し付け合うのではなく、お互いの心が自立していて支えあえるような関係が、私が考える「幸せな恋愛」だ。
劣等感の深い人は、「自分が望む愛情の形」「先に愛情を示されること」にこだわる。
そこを満たしてもらわないと不安で、
すぐキャパオーバーになる。
わかるー!
だから、
「愛情以外で自分を気にかけてもらう理由がない」状態でも心を安定させるには、
好かれている自分ではなく、
「相手を愛している自分」に安寧を求めるのが健全ですね。
自分はこの人が好き。
シンプルなその思いに身を委ねられるようになれば、「異性に愛されない劣等感」は消えていく。
愛することに、
相手の思惑は関係ないのです。
人を愛するって、本来そういう自然な状態だよね、と。
コラムニストまりかからの中継でした🍊
脳科学者まりかです!
「接客で、ニコッとされたら、好きになってしまうし、勘違いしてしまう。
叶わない相手、愛してくれそうにない相手ばかりを好きになってしまう。
愛されたいのに、愛してくれる相手からは、逃げてしまう。
かといって愛してくれないと、怒りがわいてくる。
夜の仕事の女ばかり好きになる」
みたいな感じの、とても興味深い話を見つけました。
このテーマ!
いつか私の言葉で、
説明したい、
書いてみたいと思っていました。
自分より不幸そうな人、
もしくは、
自分と同じくらい(もしも同じではなかったとしても、自分から見て、同じだと思っている)のレベルの人、
この程度なら、こんな自分のことでも、愛してくれるかもしれないって、
見下しとか劣等感もあるのかもしれないし、
たとえ、
見下しではなかったとしても、
自分のことを理解してくれそう、
受け入れてくれそうと思う人に恋をすること、
愛を求めてしまうことは、
どんな人間でも、
自然なことだと思っています。
だって、
そりゃあ、
拒絶されたくないですよね。
拒絶されたとしても、
やんわり断ってくれそう、とか、
その程度の計算は、
どんな人間でも、
無意識にしている計算だと思うし、
どんな人間でも、
もっている感情だと、
私は決めつけています。
しかも、
それが無邪気で、
何も知らない子供ではなくて、
ある程度、
経験がある大人なら、なおさら、です。
たとえば、
こんなケース。
片思いはするけど、進展しない。
自分からはいけない。
好みの人には愛されない。
相手の好意がハッキリとわかるまでは、絶対に自分も好意を見せない。
自分は、ひとつも、あげたくない。
こんな思考の人は決して珍しくなく、
奇人でもなく変人でもなく、
正常な防衛本能が働いています。
ある程度、
失敗を経験していれば、
異性とまともに向き合えない、近付けない、近づいても、おかしな近づき方とか、中途半端なことをしてしまう、自分でもなにがしたいのかわからない、
幻滅することも怖いし、
幻滅されることも怖い、
相手のいい部分だけを受け取りたい、
相手のわるい部分は見たくない、
だけど自分のわるいところは受け入れてほしい
そんなコンプレックスが大きくなるのは、仕方のないことです。
前向きに関わりたい気持ちは、
ちゃんと、あるんだけど、
傷を恐れる気持ちから小さなアプローチ、
もしくは結果を急ぐような距離なしのグイグイした極端なアプローチ、
受け入れてもらえないと、
相手を傷つけたくなる、
もしくは傷つけるまでいかなくても、
完全に相手を遮断したり、
ブロックしたくなる、
視界から消したくなる、
そういう極端なことしかできない、
どっちかしかできない。
愛されたいのに、
求められたいのに、
近付かれたら、
あらさがしをしてしまい、
嫌いになってしまい、
逃げてしまう
そういう矛盾を抱えている人間は、
多いと思うし、
私にも理解できる感情です。
失敗したくない。
惨めな思いをしたくない。
わかりやすい見返りがなければ、
絶対に動きたくない。
きっと、
そんな感情だと思います。
恥をかくのを恐れるし、
それ以上に、
「拒絶される自分」
を、避けたくなるし、
見たくないんですよね。
誰だって、そうなんです。
失敗したことない人、
恥かいたことない人って、
絶対に存在しないんです。
そして、
誰もが、
そんな傷を抱えながら、
どうするのかって、
そこで自分が抱える愛情とか欲望に従って、
相手のことを求めて、
相手に合わせるのか、
もしくは、
相手が完全に自分に合わせてくれて、
自分を求めてくれるのをまつのか、
つまり、
あきらめて、ひとりを選ぶのか、
あきらめずに、ひとりじゃないことを選ぶのか、
二種類の人間に分かれるんだと思います。
それで、
最初に書いたように、
毎回、
夜の仕事の女に恋してしまう男性というのも、
そうなれる可能性のある女(現実は違ったとしても、その男性が、そう思ってしまうってことです)、
自分の劣等感を刺激したりしない、
表面だけはニコニコしてくれる人を好きになるってのは、
ちっとも、おかしなことではありません。
サービス業や接客のように、
ある程度は「自分のことを相手にしてくれるのが当たり前、ハッキリと見返りがわかる相手、いい関係になれることを期待させてくれる相手」を好きになるのは、
自然なことだと思います。
愛されたい、求められたい気持ちが、
自分の劣等感を刺激しない人を求めてしまうんだろうね。
わかります。
優しい人、
ニコニコしている人のこと、
勘違いするまではいかなくても、
やっぱり私も大好きだもん(笑)
そんな人のことは、誰だって、大好きです!
好意をもってもらえていると期待してしまう、勘違いしてしまう、
好きになってしまうのは対等な関係を育めない人、
愛してくれそうにない人に、
自分の闇を投影してしまって、
自分だけは愛してもらえるかもしれない、
自分だけは特別扱いしてもらえると錯覚してしまう、
自分の思い通りに出来そうだと錯覚してしまう、
愛してくれない人に執着してしまう、
そんな人とか、
そんな思考は、
決して、おかしくありません。
その感情そのものは、決して、病気ではありません。
夢を見ることも、
悪いことではありません。
相手が向けてくれる好意(だと感じるもの)に、
全力で、すがっちゃうよね。
相手の少しのふるまい、
相手の少しの表情の変化、
それらに全神経を集中させ、
「愛されている証」
を、
探してしまうし、
どこまでも、
底なしの欲望を剥き出しにして、
愛されている証、嫌われていない証を、求めてしまうんですよね。
一方で、
やんわりと牽制されても、
そういう「サイン」がわからない、
直感では、
拒絶されているのだとか、
愛してくれないと感じていても、
自己肯定感が低いのに、
プライドの高いという矛盾をもっていると、
それを否定して、
好かれていると信じたくなる。
嫌われることを、
受け入れることが出来ない。
嫌われるまえに、
嫌いたい。
傷つけられるまえに、
傷つけたい。
あげるまえに、
もらいたい。
もしくは、
ひとつもあげたくないけど、
ぜんぶ、
もらいたい。
ひとつあげたら、
百倍返しで、愛情を返してほしい。
そんな気持ちが、
私には、痛いほど、理解できます。
「利害関係を超えて自分を受け入れてくれている」
と、どうしても思いたい。
その気持ちは痛いほどわかる。
だって、
人を好きになるって、
そういうことだ。
劣等感の強い人は、
「異性に拒絶される自分」を猛烈に避ける一方で、「異性に関心を持たれる自分」を肚の底から渇望する。
「愛されたい」
「好かれる自分を見たい」
「異性と居心地のいい関係を持ちたい」
誰もが普通に抱えるこの欲望。
理解していても、
それは、
自分の心を突き刺すような痛みで、
見たくない、表現したくない、認めたくないんですよね。
だから選ぶのは、
サービス業のような「誰にでも笑顔を向ける女性」「楽しく会話してくれる女性」になる。
愛されたいなら、
そんなの絶対に、
一般人を好きになるほうがいい。
それでも、知り合うのがそういう「対等になれない女性」ばかりになれば、好きになるのも仕方ないのかもなあ、と。
恋心は理屈じゃないからね。
「愛してくれそうにない人」ばかり選ぶのは、抱えるコンプレックスが現実を見せないから。
対等な目線で話せる異性というのが自分にとってどれほど遠い存在か、身をもって知っているから、無意識に利害や上下のある関係のなかで人を好きになる。
親しくなりかけている相手には、
いきなり攻撃的になるような不安定さが目立つかもしれない。
一般人のほうが、
むしろ交際のハードルは低いはずなのに、
そういったサービス業の女性と向き合うときより、
ずっと関係を維持するのが難しいんですよね。
常に「好かれている」「関心を持たれている」と示してもらわないとダメなんだよね。
「愛情以外で自分を気にかけてもらう理由がない」状態が不安の源になる。
夜の女性なら、自分に関わる理由が明確にある。
そこに安堵を見出し、「相手からは切れないつながり」に期待して、欲望を持ち込む。
サービス業の女性を好きになっているときは、
その人と衝突や対立する場面は、
滅多に起こらず、
滅多に喧嘩もなく、
常に心理的な距離のある状態で関係を続けられるもんね。
尊重される自分を見せてくれるのが当たり前になれば、そこに甘んじちゃうよね。
難しい恋愛ばかりを選んでしまうのは仕方ない。
それなら、
「その関係のなかでどうすれば相手と居心地のいい状態になれるか」
を考え抜く胆力が必須になる。
私が伝えたいことは、
そういう相手を好きになってしまうなら、
恋の成就とか、
自分の得を考えるよりも、
一緒にいれることを楽しんでほしいなんですよね。
人を好きになるのは幸せなこと。
だって、
誰かを受け入れるエネルギーがある人は、
他人とポジティブな関係を必ず築けるはずだもん。
相手と対等な立場でなくても、気にかけてもらえるのは自分には「人としていい部分」があるということだしさ。
相手にとって価値があるということですからね。
そこだけは、どんなつながりであっても関係を続けるために不可欠な要素のはず。
それなら、お互いのいい部分を認めあって楽しい感情のやり取りをするのが、心の距離を近づける最善の道になる。
好きな人と対話すること、笑いあうこと。
思いを共有すること。
そういう瞬間の連続で愛情は育つ。
「されたこと」に愛情の証を探すのではなく、まずは自分自身が「その人を好きな自分」を受け入れて慈しむことが、成就には欠かせないと私は思う。
失敗は恥じゃないし、何度でもやり直せるもん。
そのエネルギーを持つために、
何よりも、
「今の弱い自分を知ること、醜い心をもつ自分を知って、それでも、そんな自分のことを愛する」
ことが欠かせない。
相手を愛すると同時に、どうかそんな自分も大切にしてほしいな、と。
劣等感は消えない。乗り越えるのも時間がかかる。
人に愛されたければ、まずは自分を愛さなければならない。
それが劣等感の深い人には最大の課題であって、少しずつでいいから、いろんな感情のやり取りを楽しめる自分を愛してほしいと思う。
共依存のように「好かれている証明」を押し付け合うのではなく、お互いの心が自立していて支えあえるような関係が、私が考える「幸せな恋愛」だ。
劣等感の深い人は、「自分が望む愛情の形」「先に愛情を示されること」にこだわる。
そこを満たしてもらわないと不安で、
すぐキャパオーバーになる。
わかるー!
だから、
「愛情以外で自分を気にかけてもらう理由がない」状態でも心を安定させるには、
好かれている自分ではなく、
「相手を愛している自分」に安寧を求めるのが健全ですね。
自分はこの人が好き。
シンプルなその思いに身を委ねられるようになれば、「異性に愛されない劣等感」は消えていく。
愛することに、
相手の思惑は関係ないのです。
人を愛するって、本来そういう自然な状態だよね、と。
コラムニストまりかからの中継でした🍊